2018年08月11日

ロイテリ菌はなかなか良いものです

2〜3か月くらい前だと思いますが、テレビでロイテリ菌の話題を取り上げていました。

ロイテリ菌と言うのは乳酸菌の一種で、人由来であって腸内フローラをよくする。

というようなことを放送していました。

他にも、歯周病に効果があり、口臭予防にも役立つと。

それを知って、確かに自分の腸内フローラには自信がないし、

歯周病に少しなったこともあって、試してみました。

30粒(30日分)で3千円くらいです。

夜、寝る前に歯を磨いたら、すかさずロイテリ菌のタブレットをなめます。

まず使って数日後に意外な効果が表れました。

私は慢性的に蓄膿症だったのですが、これがどんどん改善していく。

以前は鼻の詰まった声だったのが、声の通りがよくなる。

これは意外でした。1週間くらいで治りました。

そして、トイレに行ったときに、たまにお腹の調子が悪い時があったのですが、

これも良くなった感じです。

トイレ後の匂いとかも結構改善した感じがありました。

(ブログの品位上、これ以上詳しくは書きませんが、よくなりました。)

下痢とか便秘もほぼなくなりました。

値段がサプリとしては結構いい値段しますから、

少し回数を減らしてもいいのかどうか迷っていますが、

まだ2か月目なので、毎日継続しております。

勝手な造語ですいませんが、腸イケメンになれたらいいなと思っています。

(顔の方はまったく自信がないのでせめて腸は、と)

そういえば歯の方も調子がいいですね、

口の中の粘った感じも少ないです。

歯の匂いはそもそもが少しだったのが、完全になくなった感じです。

口が臭いとか、お腹の調子がたまに悪いとか、

腸イケメンになりたい人にはお勧めです ♪

あと、調べたらピロリ菌にいいとか、アレルギーに効くとか、

いいことが書いてあって、

ちゃんと調査・統計上のエビデンスもあるということです。
posted by しゅうにゃん at 19:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月25日

【知の書】その1、知恵と感覚と学校教育

 〜 なんかかければいいと思った 〜

 最近、目新しい記事が書けないので、これは伝えておきたいとか、これは残しておきたいと思うことを文章にして掲載したいと考えました。

1回目は知恵と感覚と学校教育。(草案)←書きかけです。できれば書き直したい…。

 なぜ知恵に感覚なんて必要なのか?感覚を超えているからこそ論理や知恵であるのではないかとそう思っている方も多いでしょう。ですが、私は明言しますが、人並みを超えたいと思ったら、知識と知恵に感覚は必要です。
 一般的な日本人はペーパーテストを何度も受けますから、質問1の答えはA、質問2はBのようなこれが正しくて、これが間違っている程度の勉強をしてきますね。確かにそれはそれで常識を身に着けるにはいいことですが、同時に我々の知識の範囲を狭めているのです。
 ちょっと考えるとわかるのですが、ノーベル賞を取るような人はこういう判断で取れるでしょうか?私はかなり難しいと思います。つまり常識を身に着けすぎているひとは、常識を超えられないのです。あるいはマンガでもいいです。一般人が漫画を描いてすぐにヒットするでしょうか?そうではなく自分なりにマンガを上達させて、様々なセンスをアップさせていかないといけないのだと思います。

 私は高校時代に、教育課程だけの知恵では何かが足りないと思って、ブルーバックスなどの科学の新書をよくよんでいました。その中に「紫外線はガラスを透過するときに大きな損失が出て場合によっては透過しない。」というのを読みました。あるとき、同級生にそれを言ったら「ガラスが紫外線を透過しないなんてことは教科書には書いていない」つまり信じないというわけです。びっくりしました。こいつは教科書に書いてあるかどうかを重視して自分の知識にしているのかと。たぶん模範的にテストだけは成績が良いのですが、大物になるのは難しいな〜と思いました。頭は悪くないんだけど、よくもないなと。感覚的に間違っていると言う判断はないのだろうなと。
 これも一つのセンスの話です。学校で教える知識と言うのは、間違ってはいけない分、学習指導要領というのが定められています。これは公約数的にはあっている知識ではありますが、難しいことは教えないのです。だからこれは正解、これは不正解というのが明確です。
 しかし、ここに大きな問題があって、未解決の問題を解いたり、発想を豊かにしたい場合には独創性や経験にないがしかし正しい判断などをしなければなりません。あるいはたくさんの知識を学んで、膨大な例証から学ぶべきなのです。
 学校のテストがよい、というのを過剰に重視すると独創性や判断力は低下するのではないかと思います。同時に学校で学ぶ知識はほぼ間違いはないのです。だから、学校で学ぶことは一般的にあってはいるが、範囲は広くないので自分や社会を豊かにするには何かが足りないと思うべきなのです。
 学校で学び、常識だけを身に着け、人並みを心がける。というのは確かにそういう生き方ではあるのでしょう。それは一つの生き方戦略としてあるのでしょうが何が起こるでしょうか?
 その人がどうなるか?を考えましたか?いえいえ、まず社会が面白くもなんともなくなります。おそらく無難なものばかりをつくりだす、そして陳腐化していく社会です。発想力が乏しい、コピーが多い社会でしょう。そして、集団でミスに気付かずになんかおかしい方向に行くけど、仕方ないですませる社会…。実際のところは、人並みを超えたい、個性を持ちたいと思う人間は多いのですが。
 ここでちょっと方向を変えますが、初めに述べました知識に感覚が必要というのはどういうことかというと、問題1には正解Aというのを超えた知識と感覚を持ってみようということなのです。数字は数字で万人に同じように見えますが、私の経験上、頭の良い人は数字の見え方が少し違います。144というのが、すぐに12の2乗というのは序の口です。RPGゲームでサイコロを多用すると216という数字にこだわるようになりますし、数学にこだわりを持つと素数かどうかをすごい気にするようになります。確かにそういうのは序の口です。数学が好きな人や数字にこだわりをもてばこういう傾向がすぐ現れますからね。
 でも数と言うのを深く知れば、京都大学の数学者、望月先生のようにABC予想が正しいと言えるのかもしれません。
 感覚と言う事から言うと、これは正しい、これは間違い、というのは一見すると正しいのですが、無味乾燥で人間を没個性化させマニュアル化させ、均一化させてしまいます。テストではあっていても現実的な応用力に弱い。
 それだけではなく、たぶんテストの上でも成績は上がらなくなるでしょう。私は高校生の頃に地理の成績が抜群に良かったのですが、それには感覚知というのが大事な要素になっています。多くの人が地理でいい成績を取れないのは、知識が膨大にいるからなのですが、何か一つ一つの知識にひっかかりをもち、ブラッシュアップさせていくことができたので成績は急上昇しました。偏差値78.3、都道府県で2位ってな感じです。もちろん勉強はしましたが、おそらく効率の良い勉強を多くの時間すればそうなります。1日数時間ほどみっちりやったからね。
 もう一つ、いいましょう。人は知識を学びますし、正解はAとかという規格化がされれば同じ知識を持っているように見えますね。しかし、それが本当に同じものだと言えるのでしょうか?おそらく同じだと言う前提になっているはずですが、実際には微妙に異なるでしょうね。たぶん皆が同じと言う前提の下ではそうなるでしょうが、おそらく一人一人が違っています。じゃあ、個性ってみんなもっているからいいのでは?ということになると思いますが、実際には日本は没個性社会に見えます。でもここに重要な示唆があります。同じ知識に見えて、一人ひとり微妙に違っている(はず)です。それを伸ばしてやれば没個性ではなくなるかもしれないし、その上である程度、規格化された社会の良さを感じられるのでは?いいとこどりできるかもです。
 突き詰めると、数学ではわかりにくいですが、哲学なんかでは知識に付随する感覚の深さなどはおそらく重要になってくると思いますし、多かれ少なかれ、どの学問でもそういう感覚知を持たないと、行き詰ってしまうのです。
 実は学校の例でいうと、成績をよくするために、他人のペーパーを丸写しっていうのは、そもそもダメなのですが、そこには正解でさえあれば学習するかどうかを問わないみたいな怖さを持つ人がいます。それで世の中を豊かにしたり、問題を解決したり、個性的であろうと言うのはどう考えても無理があります。その方が楽だと言って、多くの人は右から左へ知識を流しますが、それは教科書の中の話です。実際にこの世の中を進歩させるには、多少深く、他人とは異なるがしかし、それはそれで正解な知恵というのを持てたらいいなと思いませんか?
 それを身に着けるためには、感覚を伴ったより深い知識と言うのを持てたら、それは日本や世界を豊かにできる可能性をも秘めているのだと思います。
 実は、高校生の時代に、私はペーパーテストが退屈だったので、ある程度遊んでみました。地理の設問にロシア語のキリル文字で正解を書いたり、数学では全く個性的な新しい方法(しかし時間がすごいかかる!)で問題を解いたりして予備校に返したのです。
 地理の方は×でしたが、数学では全部解けなかったので点数は低かったですが、とても大きな花丸が返ってきました。それだけではなく、その予備校は大学入試センター試験の後の予備校の入学料を全額免除する(それは東大受験者よりも低い!)という条件でオファーしてきましたし、その解く方法を真似していました。なぜ、そんな解き方をしたかというと、現代における問題の解決は教科書通りの方法では解けるものは解かれてしまっているので、少々変わった方法を持つ必要があると思ったからです。例えて言うならiPS細胞を発見するとき、必要な遺伝子を見つけるために一つずつ遺伝子を抜いていき、残った遺伝子から割り出す、みたいな自分の頭を使って新しく方法を考えることが重要だと思ったからです。これは一つの考え方だと思うのですが、知識と知恵に感覚があればこそです。方法自体を考えるのはちょっと難しいですけどね。
 もう一つ、逆はまた真なりです。知識に感覚を持つなら、感覚に知識を生かすことも可能ではないかと思います。私は料理を考えたりアレンジするのが好きなのですが、味の感覚を頭の中で想像することによって、新しい料理の可能性を広げようとしています。これも知識や知恵と感覚をリンクさせるからこそできることだと思うのです。
 普段は決してセンスがいいと思われないのですけどね。センスをよくしようと努力するにも知識と感覚のリンクは必要だと思われます。そして、センスのない人間であればよりセンスを学ぶ必要があるのですから、感覚知というのは努力してでも獲得したいものだと言えるのだと思います。
 さて、知識と感覚について、少し脱線気味に書きましたが(長すぎて冗長っぽい…)、知識に感覚は付随しているはずですし、それは多少異なっているが現代日本では規格化され過ぎていますし、そのことに多くの人は気付いていません。世の中を豊かにし問題を解決するために、人の道に外れない範囲で感覚と知識をリンクさせて行ければ、よりバラエティーのある日本にできる可能性を秘めているのだと思います♪


posted by しゅうにゃん at 20:59| Comment(0) | 知の書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする